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他人の話に振り回されない

  • sapporobukkyoujuku
  • 9月4日
  • 読了時間: 1分

他人の話に振り回されない 見清浄に達する行者は、ヴィパッサナー瞑想の経験から、釈尊が説かれた教えはそのまま真理であることを納得しているのです。そして、さらに実践を続け、ブッダの教えはそのとおりであると、実践の経験から実証していきます。 一例を挙げると、「生きることは苦である。間違いなし。異論なし。疑問なし」というような智慧です。命に対して、この世でいろいろな人がいろいろなことを語ります。それぞれの知識人の異なる意見を聞くと、「あれも正しいかもしれません。これも正しいかもしれません。どちらも間違っているかもしれません」などなどの疑問が生じて、心が曖昧状態になるのも無理はありません。そうはいっても、曖昧さ、中途半端であること、疑で悩んでいることも、心の汚れです。客観的に自己観察を続けていくと、生きるとは何かと実証できます。そうなれば、他人の話に振り回されなくなります。この智慧によって、一段階、心が成長します。清らかになります。それが度疑清浄です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p18】

 
 
 

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