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何かを理解する

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月4日
  • 読了時間: 2分

何かを理解する、発見するとは、何かを認識することなのです。ですから、我々が何かが正しいと認識する場合は、その認識に至るプロセスが大事です。プロセスが間違っていると、認識も間違っていることになります。お釈迦様は他宗教の方々の考えについて一方的に批判することを止めて、その認識に至った過程が正しいか否かを調べるのです。要するに、お釈迦様は認識論(epistemology)を大事にしたのです。他人の意見に対しては、その意見に達した方法が客観的で事実に基づいているか否かを調べて、客観的でない場合、事実にあってない場合、人の努力は認めますが、達した結論は完全ではないと示すのです。長部経典の第一の『梵網経Brahmajālasutta』では、このようなアプローチで、様々な宗教哲学の相違点を示したのです。相手を自分の意見と比較して一方的に批判することはなかったのです。人の意見に対して柔軟な態度をとっても構いませんが、実践になると曖昧な方法ではいけないのです。あのやり方でもこのやり方でも良いのではないかと言われると、どうすれば良いのか分からなくなるのです。ですから、心を清らかにするならば、悩み苦しみをなくすならば、一つの方法しかないと決定してあるのです。その決定に達したのは、お釈迦様が他の宗教家の実践方法を試してみて、解脱に達することに成功しなかったからです。気づきの実践で、完全たる解脱に達したからです。 

アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p18

 
 
 

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