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八十一個の現象

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月27日
  • 読了時間: 1分

八十一個の現象 ものごとの自性を見いだすことができれば、それは抜群の能力になります。しかし俗世間的なものごとの自性をすべて見つけることは、あり得ない話です。ここで仏教は、科学者が使う方法論を用います。生物学者は、すべての動植物を一個一個別々に研究することはしません。類似点を見つけて、グループに分けて研究しやすくします。仏教の場合は、存在全体をnāma とrūpa という二つに分けます。それから、nāma はいくつあるのか、rūpa はいくつあるのかと調べるのです。アビダンマではnāma は心一つと心所五十二、合わせて五十三です。Rūpa は二十八です。簡単で分かりやすいです。八十一個の現象になったのは、それぞれの現象(dhamma)に自性があるからです。修行者はnāma のいずれかに集中してみます。Rūpa のいずれかに集中してみます。その場合、集中したdhamma の自性が観えてきます。 修行者はnāma のすべてを観察する必要はありません。同じくrūpa のすべてを観察する必要もありません。修行中、何かに気づくでしょう。それをその都度、観察すれば充分です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p86】

 
 
 

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