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六番目の横木は行道智見清浄

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月22日
  • 読了時間: 1分

六番目の横木は行道智見清浄

 この例で言う溶岩に呑まれかけて苦しんでいる状態は、生命が輪廻転生している状態です。ブッダの教えを聴いて、それは苦であると理解して、上に安全な境地があると分かる。それに達したいという意欲も抱く。

 安全な境地に達したいという意欲を抱いたところで、智慧のハシゴが見えてくる。最初からすべて見えるというより、まず横木一つが見えてくる。それを昇ったら、次の智慧の横木が現れてくる……こんな調子で、六番目の横木も昇ってみる。それは六番目の行道智見清浄と言います。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p153】

 
 
 

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