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六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月8日
  • 読了時間: 2分

六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa

 自分がいる状況は確実に危険であると分かれば、そこから脱出したくなります。自分の寝ている部屋が火事になってごうごうと炎が上がっていると発見したら、心は瞬時に脱出したいと思います。「きれいな部屋だったのに」「気に入っていたのに」「模様替えしたばかりだったのに」云々とは考えません。この喩えのように、修行者は一切の現象から脱出するべきだと発見するのです。この説明で一貫して「一切の現象」という言葉を使ってきました。

 修行者は実際、何を観察するのでしょうか。身体と感覚のことです。Nāma とrūpa です。Nāma とrūpa とは、「自分」を構成するすべてです。ですから一般常識では、この脱欲智は理解できません。俗世間の言葉に変えると「自分自身が自分自身のことを怖畏だと感じて、自分自身から脱出したくなった」ということです。この文章の意味は全然理解できないと思います。つまりは、修行者にnāma-rūpa の生滅の流れから脱出したいという脱欲が生じた、ということです。「今いるところが危険なら、安全なところに避難しなさい」と言ったら理解できます。

 ここで脱欲というのは、避難したがる気持ちなのです。しかしどこから避難するのか、ということは分かりますが、どこへ避難するのか、ということは成り立っていないのです。再び注意しますが、常識的な知識でなんとか推測できるかもしれないとしても、理解できると思わない方が無難です。ここまで説明したのは、脱欲智のことです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p146】

 
 
 

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