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呼吸そのものが身体

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月11日
  • 読了時間: 1分

呼吸そのものが身体 身体全体と言う場合、ブッダゴーサ(Buddhaghosa)長老の〔大念処経の〕註釈では、「呼吸そのものが身体」と解釈します。すると、呼吸を全部観なさいという意味になりますが、何かちょっと納得いかない。一般的に「身体全体」ということでいいのではないか、とも思います。なぜそのような註釈になったかというと、伝統的に鼻先だけに集中する呼吸瞑想を教えていたからなのです。その方法はsamādhi 統一状態をつくるためには、大変便利なやり方でした。Samādhi を目指して瞑想するならば、註釈書のアドバイスに従っても構わないのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016、p.59】

 
 
 

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