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因縁法則と疑の関係

  • sapporobukkyoujuku
  • 2月1日
  • 読了時間: 1分

因縁法則と疑の関係


 見清浄に達するためには、修行者が観察するすべての対象をnāma とrūpa に区別できることが条件です。区別能力がついたら、一切の現象はnāma とrūpa で構成されるものであると、それ以上でも以下でもないという事実に目覚めます。これは見清浄の智慧です。四番目の度疑清浄に達するために、nāma とrūpa の因縁関係を観察するのだというのが、テキストの趣旨です。


 これだけの説明では実践できないので、少々、解説する必要があります。仏説とは因縁法則です。しかしパーリ経典には、因縁の教えは人間にとってはあまりにも複雑で理解しがたいものであるとも説かれています。『清浄道論』を著したブッダゴーサ長老も、因縁の章に入ると自分は海に流されたような気分になると、ご自分の感想を述べています。因と果の相対性に気づいたナーガールジュナが、大乗仏教で有名な『中論』(空の思想)を作り上げました。ブッダが因縁を説かれたというのは正しい表現ですが、ブッダが一切皆空を説かれたというのは極論です。間違いとは言いづらいですが、言い過ぎだとは言えます。


【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p101】

 
 
 

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