top of page
検索

安心で良いものに集中

  • sapporobukkyoujuku
  • 6月3日
  • 読了時間: 1分

安心で良いものに集中 楽しむために、食べ物・服装・芸術・旅行・趣味などに頼る道は危険です。興味を失ったら、乗れなくなります。楽しみがなくなるのです。他の頼るもの・乗れるものを探さなくてはいけなくなるのです。実際の楽しみは集中力によって生まれるのだと理解したほうが安心です。それなら、危険なものではなく、安心で良いものに集中してみれば、楽しみが生まれます。例えば子供たちがゲームではなく数学に集中してみる。そうすると数学を学ぶことが楽しくなる。それはその子供にとって、将来悪い結果になるのだと言えないのです。しかしなぜ仏教は、俗世間的な楽しみを評価しないのでしょうか。俗世間の楽しみは、貪瞋痴の感情をかき回すからです。貪瞋痴に覆われると、理性が失われます。無智に陥って、不幸になってしまいます。世間は、たとえ不幸に陥っても構わないと思って、楽しみに依存する場合が多いのです。仏教が推薦する楽しみ方は、必ず人を幸福に導きます。貪瞋痴の感情をなくします。理性と智慧が現れて、一切の苦しみを乗り越えることも可能なのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p81】

 
 
 

最新記事

すべて表示
自然に集中することができるようになる

自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負け

 
 
 
見清浄に達するために

見清浄に達するために 特別に何もする必要はありません。ただヴィパッサナー実践を続けておこなうだけです。心の成長のためには、何かを繰り返し、繰り返しおこなう必要があるのです。ここで修行者は、気づきの実践を繰り返しおこないます。今までおこなったことがない仕事なので、慣れるまでは大変苦労します。しかし徐々に慣れてくると、心も徐々に成長する。徐々に安らぎを感じられるようになる。 Visuddhi(清浄)と

 
 
 
もしかしたら何かがあるはず、という気持ち

もしかしたら何かがあるはず、という気持ち 我々人間は、神、守護霊、先祖の霊、ただの霊、精霊、山、川、海、水、火、雷、風、聖地、樹木、岩、蛇、馬、ライオン、ワシ、狐、龍、等々の何かを信仰して、何かに頼って、安心感を獲得するのです。存在欲に燃料を供給します。それらは空(から)の安心感ですが、否定する勇気はありません。もしかしたら何かがあるはず、という気持ちは消えません。このような生き方が、見解の網に絡

 
 
 

コメント


bottom of page