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安心で良いものに集中

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年6月3日
  • 読了時間: 1分

安心で良いものに集中 楽しむために、食べ物・服装・芸術・旅行・趣味などに頼る道は危険です。興味を失ったら、乗れなくなります。楽しみがなくなるのです。他の頼るもの・乗れるものを探さなくてはいけなくなるのです。実際の楽しみは集中力によって生まれるのだと理解したほうが安心です。それなら、危険なものではなく、安心で良いものに集中してみれば、楽しみが生まれます。例えば子供たちがゲームではなく数学に集中してみる。そうすると数学を学ぶことが楽しくなる。それはその子供にとって、将来悪い結果になるのだと言えないのです。しかしなぜ仏教は、俗世間的な楽しみを評価しないのでしょうか。俗世間の楽しみは、貪瞋痴の感情をかき回すからです。貪瞋痴に覆われると、理性が失われます。無智に陥って、不幸になってしまいます。世間は、たとえ不幸に陥っても構わないと思って、楽しみに依存する場合が多いのです。仏教が推薦する楽しみ方は、必ず人を幸福に導きます。貪瞋痴の感情をなくします。理性と智慧が現れて、一切の苦しみを乗り越えることも可能なのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p81】

 
 
 

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「因果法則」は存在そのものの研究成果

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広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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