top of page
検索

心の中にも心所の変化が起きている

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月11日
  • 読了時間: 1分

心の中にも心所の変化が起きている 例えば修行中、身体が岩のように重くなったり硬くなったりすれば、びっくりしますね。しかし、びっくりしてはいけません。冷静に、硬さ・重さに集中して実況するのです。これは地色の観察です。もしかすると修行者はこのように気づいてしまう可能性があります。言葉にしてみるとこんな感じです。「いやいや、身体が岩になるはずはない。重くなるはずもない。心が硬さ・重さを認識しているのです。その認識と同時に心の中にも心所の変化が起きているのです」。このように気づいたならば、nāma を発見していることになります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p93】

 
 
 

最新記事

すべて表示
疑とは何?

疑とは何?  ヴィパッサナー瞑想の悟りの智慧の四番目は、kaṅkhāvitaraṇa 度疑清浄です。  ここでは一行で説明していますね。「その名色の縁の把握を度疑清浄という」。それしか説明していません。Kaṅkhā は疑い、vitaraṇa は渡る、という意味です。つまり、疑で悩んでいる状態を越えることです。これもヴィパッサナー実践により修行者が得る智慧の一つです。疑というといろいろです。  誰で

 
 
 
智慧が現れる過程を七つに分ける

智慧が現れる過程を七つに分ける 当然、ヴィパッサナー実践も日常でおこなうものではないので、修行中、変わった経験が起こり得ます。しかし修行者は、それに執着もしない。解釈もしない。そのまま確認して放っておきます。そして、智慧が現れることを期待します。脳の捏造機能を破るために精進するのです。智慧が現れると、先入観が一切なくなると、ありのままの事実が観えるのだ、というスタンスです。 ありのままの事実とは、

 
 
 
神秘体験を得ることは目的でない

神秘体験を得ることは目的でない 例えば瞑想中、普通とまったく違った光を体験したとします。脳に起きた現象なので、否定する必要はありません。しかし「したがって、人の魂はまぶしく輝く光である」という哲学は駄目です。そのように言うための証拠はありません。長部経典の第一『Brahmajālasuttanta 梵網経』では、このポイントが明確に語られています。瞑想中、何を経験するか、分かったものではないのです

 
 
 

コメント


bottom of page