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感覚と自我

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月21日
  • 読了時間: 1分

感覚と自我

 自我・魂という概念は、一般人の考えではなく、宗教世界の考えなのです。誰でも知っている「私がいる」という実感の正体は、永遠不滅の魂であると、宗教家が語るのです。それは思考の結果です。「感覚が変わらない」という誤解に基づいた思考なので、魂という概念は正しい結論ではないのです。

 私がいる、という実感がある人々に、「死にたくはない」という気持ちが生じます。楽しい感覚を感じると、「これが続いてほしい」という欲望と希望が生じます。このように、誤解に基づいて現れた欲望と、叶わない希望に汚染されて弱くなっている心にとって、永遠不滅の魂の話は朗報になります。無批判的に、鵜呑みにします。それで心が洗脳されてしまいます。

【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p147】


 
 
 

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