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感覚の観察はなぜ大事なのか?

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年8月17日
  • 読了時間: 1分

感覚の観察はなぜ大事なのか? 仏教は無我を語る教えです。自我があると思うと、自分に強烈に執着するのです。生き続けたい、という気持ちになるのです。その気持ちの結果として、限りなく輪廻転生するのです。解脱に達するためには、自我意識をなくさなくてはいけないのです。これがなかなか消えないのは、我々みんなの最大の問題です。自我意識とはどのようなものかと発見するために、感覚を客観的に観察してみる必要があります。 大念処経の「受の随観」章では、観察の仕方だけが述べられています。実践する人にとっては、それで充分です。説法や解説を入れると、実践はうまく進まなくなるのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p145】

 
 
 

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「因果法則」は存在そのものの研究成果

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