top of page
検索

感覚は現れて消える

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年8月20日
  • 読了時間: 1分

感覚は現れて消える 細胞分裂の場合は、遺伝子を新しい材料でコピーするのです。コピーの元である遺伝子が壊れます。コピーからコピーを取り続けると、どんどん原稿から変わってしまうのです。しかし全く分からなくなった、ということもないのです。肉体の場合は、遺伝子がコピーされるから、アイデンティティのようなものが見えるのですが、「自分がいる」という実感を作る感覚には、それさえもないのです。 感覚はコピーされるものではありません。触れる情報によって、現れて消えるものです。誰も、遺伝子を参考にして「自分だ」と言っているわけではないのです。感覚を参考にしているのです。 ですから、「私がいる」とは明確に錯覚なのです。勘違いなのです。感覚を観察し続けると、「私がいない」と発見します。正しい言葉でいえば、「私がいる、とは成り立たない」という発見です。言い換えると、最初から「私」はいなかったのです。感覚のはたらきを誤解していただけです。これが解脱に繋がる智慧なのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p146】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page