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普通の認識を駆使して自分の解脱の表現を考える

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月6日
  • 読了時間: 1分

普通の認識を駆使して自分の解脱の表現を考える

 解脱に達する人々は、それから他の人々にも解脱の道を教えます。解脱に達した先輩の聖者たちは、相手の悟りが本物なのか、調べることもします。本物なら認めてあげるし、そうでなければ間違いを直して指導します。解脱に達している瞬間では、何の概念も存在しません。それから普通の認識の流れに戻ります。普通の認識を駆使して自分の解脱をどのように表現するべきか、考えたりもします。無我に集中して解脱に達した聖者が自分の心を表現するときは、suñña 空という言葉を使うでしょう。無常に集中して解脱に達した聖者は、animitta 無相という言葉を使うでしょう。苦に集中して解脱に達した聖者は、appaṇihita 無願という言葉を使うでしょう。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p168】

 
 
 

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