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死体を動物たちが食べてしまう

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月15日
  • 読了時間: 2分

死体を動物たちが食べてしまう 墓場に捨てられているもう一つの死体が見つかります。その死体は烏にあっちこっち食べられている。鷹や禿鷹、蒼鷺といった肉食の鳥(猛禽類)たちが来て食べていく。それから野良犬やジャッカル、色々な動物や虫たちが来て食べているのだと。そういう死体が見つかったら、前と同じ観察をする。 ここに死体があって、色んな動物たちが来て、一部分をむしって食べてしまう。そこでは社会的な肩書きもないし、男もないし、女もない。動物達にとっては何のこともないのです。お化けが出るとか、成仏できないとか考えることは何もなく、ただ食べてしまう。そういう状況で自分の身体に瞑想を持っていく。この身体も確実にそんなことになる。こういう状況から解放されることは決して有り得ない。死んでしまえば、ただの肉になる。自分の身体だけではなくて、どんな人の身体も、どんな動物の身体も、結局死んだらそんなものです。ただどこかの動物の食料になるだけ。そういうふうに観てみる。 それでまた、身体の現れるプロセス、滅するプロセス、また、その両方を観察します。生と滅の観察方法は色々ありますが、どんな方法でもいいのです。例えばこの瞑想の場合、身体はどのように現れてくるかと。どんな現れ方でもいいのです。我々が世のなかを観ていると、色んなところで毎日毎日新しい身体が生まれてくるでしょう。動物の世界を観ても色んなところで新しい身体が生まれることは、いつでも観察できます。生まれてきた身体は色んな方法で栄養を摂って、餌を食べて大きくなるし、それから運動をして消耗したり、病気になったりして、身体が毎日衰えていって、やがて死んでしまう。やがて他の生命の食料になって終わってしまう。これは全然残酷な考え方ではなくて、普遍的にどんなときでも、どんな時代でも確実に起こる出来事です。これは決して避けることができないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p115】

 
 
 

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