top of page
検索

汚れたら、洗濯

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月25日
  • 読了時間: 2分

汚れたら、洗濯 服が汚れたら、洗濯しますね。その結果、服はきれいになります。服をきれいにする場合にも順番があります。まずは、ポケットの中にあるチョコレート、飴玉、コイン、紙くずなどを取り出します。砂、土、泥などが付いている場合は、はたいて落とします。水に溶けて他の服にも色が付く恐れがあるインクの染み、落としにくい汚れなどがある箇所は、先に洗っておきます。それから洗濯機に入れます。洗濯機にも洗濯の順番があります。洗い、すすぎ、最後に脱水して、機種によっては乾燥までして終了となります。 この順番は変えられません。洗濯が終わってからチョコレートや紙くずを取り出すことにしたら、服はきれいになりません。脱水は先にして、洗うのはその次、という順番も駄目です。最初に乾燥して、それから洗うのも駄目です。あるいは、服にはアイロンをかけますが、時間があるからといって、洗濯機に入れる前にアイロンをかけても無意味です。このように、汚れた服がきれいな状態になる、ということを考えても、変えられない決まった順番があることは明確です。 心の洗濯にも、当然順番があります。心は、無始なる過去から汚れてきたので、服の洗濯よりは難しいです。Sacitta pariyodapanaṃ というブッダの言葉があります。「己の心を洗浄する」という意味です。Visuddhi(清浄)は、ヴィパッサナー瞑想のキーワードです。心の洗濯には、七つの階梯があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p11】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 
自然に集中することができるようになる

自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負け

 
 
 

コメント


bottom of page