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無常たる現象には変わらない芯たるものが何もない

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月2日
  • 読了時間: 1分

無常たる現象には変わらない芯たるものが何もない

「attā 我」とは、現象の中に芯たる変わらない何かがある、という推測です。そうではなくて、無常たる現象が一時的に成り立つだけで、変わらない芯たるものが何もないならば、それはsuñña 空という言葉で表現されることになります。

 Natthi 無とsuñña 空は同じ意味ではありません。無とは、有る・無しの関係です。「机の上にカップがありました。今、ない」という程度の話です。空とは、「有るが如く映る現象は有るが、本来の姿は空である」という意味です。机の上にカップがあるときも、そのカップは空です。机の上からカップを取り去ってからの状況も、空です。我は存在しないと発見することを、仏教用語でsuñña 空と言います。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p167】

 
 
 

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