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無常論は「無価値」論

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月28日
  • 読了時間: 1分

無常論は「無価値」論 なぜ「全ては無常だと観なさい」というかというと、無常という一言で「無価値です」ということも言っているからです。金はピカピカ光るからこそ価値があると言っても、それは嘘でしょう。他に金よりよく光るものはあります。でもそれは長持ちしないんです。普通のアルミ箔でもちゃんと光を当てれば金よりはもっとよく光るでしょう。しかし、アルミ箔にはあまり価値を入れません。なぜならば金と比べるとアルミのほうは無常でしょう。短命でしょう。だから短命ならば価値は入れません。 我々はそこらでテントを張ったならばそれは一日二日しかもたないと知っているので、それほど価値は入れません。誰かに壊されてもそんなに大騒ぎはしません。しかし、鉄筋コンクリートのマンションは、三十年四十年は持つと思っています。それを作ったところで二、三ヶ月経たないうちに耐震設計の偽装が発覚して、壁面のあちこちにヒビでも入ってしまったら、大騒ぎです。長持ちする、価値がある、と思っていたものに価値がない、長持ちしないことが分かると、パニックになってしまうからです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p129】

 
 
 

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