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無明は四回も叩き潰さないと壊れない

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月17日
  • 読了時間: 1分

無明は四回も叩き潰さないと壊れない

 阿羅漢になると、avijjā 無明という煩悩も根絶されます。そこでまた問題です。智慧がなければ預流者にさえなれないでしょう。智慧とは無明がなくなった状態でしょう。阿羅漢が無明を根絶するならば、預流者・一来者・不還者にはavijjā 無明があることになります。

 これはそのとおりですが、中身が違います。一般人の無明は、真理を何も分からない状態を意味します。これらの聖者たちは、たとえ弱いとしても存在欲を持っているのです。僅かでも存在欲を持っていることに、この場合は無明と名付けています。阿羅漢になると、やっと無明が跡形もなく根絶されます。ですから、無明とは煩悩の中で一番たちの悪い煩悩なのです。四回も叩き潰さないと壊れないものなのです。

 もう一つの説明の仕方もあります。預流者から阿羅漢になるまで、四つのステージに分けて智慧を完成していきます。四つのステージに分けて無明を壊していきます。ですから無明をなくした度合いに合わせて、聖者が四種類になるのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p173】


 
 
 

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