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現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月19日
  • 読了時間: 2分

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

 ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。

 修行者はこの落とし穴から這い上がるために、次のように観察するべきです。「今、無常・苦・無我のみが観えています。これは現象のありのままの姿です。現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません。そのように説かれてもいません」。このように理解すれば、この障碍は乗り越えられます。

 この体験は、他宗教の神秘体験者には起こり得ません。なぜなら、たとえ無常だと分かっても、「現象の中に実体たる何かがあるはずです」と、思ってしまうからです。無常なる現象の裏に神がいると盲信するのです。他宗教が語る最終目的を仮に「神を体験する」ということにするならば、その人は自分が観察するべきでないものを観察している気分になるだけです。

 智慧の障碍は、優れたヴィパッサナー実践者に現れるものです。光などの障碍は現れない場合もありますが、智慧の障碍の場合は、ほとんどの人が引っかかる可能性があります。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p123】

 
 
 

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