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生ではなく、滅に定着

  • sapporobukkyoujuku
  • 10月9日
  • 読了時間: 1分

生ではなく、滅に定着 生滅智の次に、壊滅智が現れます。生と滅という二つの本性から、滅という本性に心が定着します。 なぜ生ではなく滅に定着するのか、という疑問が生じます。理屈だけ言うならば、心が生に定着することもあり得ます。しかし、今は理論を話しているところではなく、実践を語っているところです。生に定着することも理論的にはあり得ますが、現実的には、滅に定着してしまうのです。理由はいたって簡単です。修行者は生という本性に、あまり感動しないのです。びっくりしないのです。しかし、滅という本性に仰天するのです。頼っていたもの、信頼していたもの、「私」「私の」と思っていたものが、ガラスが割れるように壊れていくからです。それは気になります。見過ごすことはできません。ですから自然に、すべての現象が持っている生と滅という二つの本性の中で、滅という本性に心が定着するのです。そちらに集中力を注ぐのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p43】

 
 
 

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