疑が晴れるsapporobukkyoujuku2月21日読了時間: 1分疑が晴れる 線形的でもあり並列で多次元的でもある因縁法則を発見すると、世に存在するすべての問題や疑問に対して答えが見つかります。皆どこで勘違いして、さまざまな哲学・宗教をつくったのか、分かるのです。因縁に依らざる現象は何もないと、これが最終的な真理であると、発見します。この智慧は度疑清浄と言います。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p110】
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。 修行者はこの落と
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa観察の汚れ:② 智慧ñāṇa 言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。 ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え
観察の汚れ:① 光obhāsa観察の汚れ:① 光obhāsa Obhāsa とは光のことです。瞑想中、頭の中にじわじわと光が現れてきます。まぶしくなるほど明るくなる場合もあります。光とは目を開ければ見えるものですが、この光は目を閉じていても見えます。座る瞑想を止めて歩く瞑想などをするときも、この光がどこにでも現れるようになります。当然、そうでない場合もあります。どの程度の光かということは個人差があると思います。目で光を見るの
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