top of page
検索

痛みの観察で「智慧」を開発する

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月13日
  • 読了時間: 1分

 いつでも痛いわけではなくて、痛みはそれなりの波を打っていることが分かります。さらに進んだらもう一つ分かるのです。そこに心が行くから痛いのであって、そこに心が行かなかったら痛くないのです。分かりやすく言えばその場所を自分が知っているから痛いのであって、知らなかったら痛くはない。だから他のことを知ろう、ということで、他の場所に集中力を持っていく。ときどき、お釈迦様も病気を瞬時に治してしまうことがありました。病気で歩けないのに、瞬時に治して何のことなく元気で活動することもできた。しかし、赤痢に罹って、半年以上も弟子たちにも誰にも会わず、寝たきり状態で普通の病人として臥せっていたこともあります。そのときも、お釈迦様は自分の心のエネルギーですぐ病気を治すことはできたはずですが、あえてそれをなさらなかった。そうやってその場でその場で判断されていたのです。身体の痛みなどは、修行が進めば、その場その場で、治すか治さないかは決めることができます。それが「dukkhadomanassānaṃ atthaṅ gamāya」 ということです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.34】

 
 
 

最新記事

すべて表示
新たな現象を観察する

新たな現象を観察する 次のレッスンがあります。それは各威儀がどのように起こるのかと観察することです。坐っている人が立つと思いましょう。完全に立つまでは、坐った姿から様々な変化が起き続けます。完全に立ってから、その姿勢を変化しながら続けるのです。次から次へと生じ続ける、新たな...

 
 
 
外から、内から観る

外から、内から観る自分の身体の威儀を観察することです。それが「外の身体を観る」です。次に、身体のなかから観察してみれば良いと思います。歩いたり坐ったりすると、外から見える変化だけではなく、身体のなかにも様々な変化が起こるのです。坐ったり歩いたりという威儀を行なっている人が、...

 
 
 
まず物理的な肉体の動きを確認

まず物理的な肉体の動きを確認 修行とは真剣に行なうもので、気楽に他の人々が歩いたり坐ったりしていることを観察したところで、心が清らかになるのかと疑問をいだくこともできます。しかし、無数の生命の威儀を観察し続けると、「生きているとは行住坐臥とその他の細かい動きのみだ」と発見す...

 
 
 

Comments


bottom of page