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皆、見解の網に絡まっている

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月12日
  • 読了時間: 2分

皆、見解の網に絡まっている 知識を駆使すると、見解の間違いが見えます。しかし否定する勇気はありません。何かの不幸に遭遇した人に、「これも神の思し召しです」と言えば、一神教の信徒でもないくせに落ち着きます。「こんなアホな考え」と否定する勇気がないのです。親しい人が亡くなって、人が悲しみに陥っているとき、「阿弥陀様のお迎えで極楽浄土に往生されました」と言ってあげれば、何の躊躇もなく納得します。そのときに、「私はそんなことは知りません。知っているのは、親しい人が亡くなって寂しくてたまらない、という現実のみです」と相手に言う勇気はありません。そしてこれは、勇気だけの問題でもないのです。人に対して失礼な言葉を発しない方がよいのです。自分の心は無数の見解の網に絡まっています。たとえ勇気を振り絞って、「神様や阿弥陀様は信じません」と言っても、相手から「あなたは自分が知っていることだけがすべてだと思っているのですか?」と反論されたら終わりです。信仰がある人もない人も皆、見解の網に絡まっているのですから。 見解のない人は存在しません。「私は何も信じません」と言う人は、「何も信じないという見解」に陥っているのです。エピソードがあります。あるバラモンがお釈迦様にこのように言いました。「尊師、私は『誰の教えも気に入らない』という立場です」。お釈迦様は、「『誰の教えも気に入らない』というあなたの立場も、あなたはきっと気に入らないでしょう」と答えました。このバラモンは、「釈尊の一言で私の立場が崩れてしまった」と感動したといいます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p79】

 
 
 

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