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瞬間のいいかげんな感覚に依存し振り回されている

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月12日
  • 読了時間: 2分

瞬間のいいかげんな感覚に依存し振り回されている 「リンゴはおいしい」といっても、本当に客観性をもって食べてみてください。あるときはおいしくて、あるときは全然おいしくない。食べたくもないほど嫌という場合もあるはずなのです。どんなものにもそういうことはある。コーヒーや日本茶、紅茶にしても、いつでも「おいしい」と言えるわけではない。「これは香りのいいお茶ですね、どこで買ったのですか」と、自分も探してきて淹れたところで大はずれ、ということもあります。 客観的にみれば、その瞬間のいいかげんな感覚に依存して、振り回されてしまっただけなのです。感覚の世界はいいかげんだ、ということです。感覚はそのとき、そのときに生まれるものであって、それを観察しなければいけないのです。 ものと感覚器官から生まれてくる感覚には、Aに対してB、Cに対してDといった決まりはありません。それにもかかわらず、人々は自分の楽の感覚をどうやって作ろうかと、外の世界でものを探していくのです。それは全くはずれのやり方です。だからこそ、この世のなかには苦しみしかないのです。 あるときはお金があって、「ああ、良かった」と思う。次には、「もっとお金を儲けよう。そうすれば最高に楽しいだろう」と頑張るのです。でもそれは間違いです。お金を手に入れるためには、犯罪に手を染めたり、色んな苦しい思いをするはめになって、結局不幸で終わる可能性もあります。だから感覚は、一つもしっかりしたものではないのです。だからここでまた、ものに対する「価値」が消えるはずなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p141】

 
 
 

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