top of page
検索

瞬間のいいかげんな感覚に依存し振り回されている

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年8月12日
  • 読了時間: 2分

瞬間のいいかげんな感覚に依存し振り回されている 「リンゴはおいしい」といっても、本当に客観性をもって食べてみてください。あるときはおいしくて、あるときは全然おいしくない。食べたくもないほど嫌という場合もあるはずなのです。どんなものにもそういうことはある。コーヒーや日本茶、紅茶にしても、いつでも「おいしい」と言えるわけではない。「これは香りのいいお茶ですね、どこで買ったのですか」と、自分も探してきて淹れたところで大はずれ、ということもあります。 客観的にみれば、その瞬間のいいかげんな感覚に依存して、振り回されてしまっただけなのです。感覚の世界はいいかげんだ、ということです。感覚はそのとき、そのときに生まれるものであって、それを観察しなければいけないのです。 ものと感覚器官から生まれてくる感覚には、Aに対してB、Cに対してDといった決まりはありません。それにもかかわらず、人々は自分の楽の感覚をどうやって作ろうかと、外の世界でものを探していくのです。それは全くはずれのやり方です。だからこそ、この世のなかには苦しみしかないのです。 あるときはお金があって、「ああ、良かった」と思う。次には、「もっとお金を儲けよう。そうすれば最高に楽しいだろう」と頑張るのです。でもそれは間違いです。お金を手に入れるためには、犯罪に手を染めたり、色んな苦しい思いをするはめになって、結局不幸で終わる可能性もあります。だから感覚は、一つもしっかりしたものではないのです。だからここでまた、ものに対する「価値」が消えるはずなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p141】

 
 
 

最新記事

すべて表示
六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa

六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa  自分がいる状況は確実に危険であると分かれば、そこから脱出したくなります。自分の寝ている部屋が火事になってごうごうと炎が上がっていると発見したら、心は瞬時に脱出したいと思います。「きれいな部屋だったのに」「気に入っていたのに」「模様替えしたばかりだったのに」云々とは考えません。この喩えのように、修行者は一切の現象から脱出するべ

 
 
 
六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa

六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa  一切の現象は怖畏のみをつかさどるのが本性であるならば、現象に対する未練を捨ててしまうのが理性的です。おいしそうに見える食べ物がある。食べたいという気持ちもある。その食べ物を徹底的に調べてみたところ、少量服用しただけでも死に至る猛毒で汚染されていると発見する。その発見と同時に、その食べ物に対して今まで持っていた未練は跡形もなく消えるのです。

 
 
 
一切のものごとの短所を発見する

一切のものごとの短所を発見する  ありのままの現象を観察する修行者には、いとも簡単にすべての現象の短所が観えます。短所という言葉を使ったからといって、滅する現象に長所があるわけではありません。ただ怖畏だけ感じても、智慧は足りません。なぜ怖畏なのかと、明確に知った方がよいのです。言葉にすべき理由などはありませんが、現象はなぜ怖畏なのか、明確に発見します。「こういうわけで現象は怖畏です」というような発

 
 
 

コメント


bottom of page