top of page
検索

社会から隔離されたら

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年8月14日
  • 読了時間: 2分

社会から隔離されたら 世のなかで色んな仕事をしながら生活することが刺激になって楽しいと思う人にとっては、一時間、二時間でも世間から離れることはすごく苦しいのです。犯罪を起こしたり、騒動を起こしたりすることで生きている人々にとって、社会から隔離されて刑務所に入れられることは強烈な苦しみです。とにかく社会に出てたくさんお金を儲けたり、色んな人と喧嘩したりして暮らしたいのだから。世間から隔離されることは耐えられないのです。 しかし、社会で色んなことをやりたくない、ものごとには関わりたくないというタイプの人は、「あなたを十年刑務所に入れますよ」と言ったら、「ああ良かった」と、最高に楽しくなってしまうのです。ご飯をつくらなくてもいいし、朝はちゃんと時間に起こしてくれるし、夜はもう時間だから寝なさいと言ってくれるし、自分がちょっと怠けたいと思っても、いま運動の時間だとか言ってその通り動かなければいけないし、いまは仕事の時間だと言われたら行って何のことなく仕事をすればいい。そこでの競争はないから、楽々と仕事ができるし、納期やノルマに追われる普通の世界の仕事とは随分わけが違って楽しいのです。分からないことがあったら教えてもらえばいいし、失敗しても、あなたは会社に損を与えましたと言われることもない。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p142】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page