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突然、強烈な気づき能力が現れて正知の力が弱くなる

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月1日
  • 読了時間: 1分

突然、強烈な気づき能力が現れて正知の力が弱くなる

 五番目の道非道智見清浄のステージの修行者に、突然、強烈な気づき能力が現れてきたら、正知の力が弱くなってしまうのです。気づきが勝手に出て仕事をしているので、修行の能力が完成した気分になります。お釈迦様も、「真理に達した人とは常に気づきがある人だ」と説かれています。今、自分は現実的に「常に気づきがある」状態にいます。ということは解脱ではないか、という勘違いも起こり得ます。このような勘違いがないとしても、勝手にスピードを上げている気づきが、修行のバランスを崩すのです。バランスが崩れたら、進めなくなります。

 修行する人にsati は必須条件です。決して悪いものではありません。最初から苦労しながらその能力を育てたのです。その能力が勝手にはたらくところまで成長したら、ありがたいことだと思うのは無理もない話です。ですからその能力に執着してしまいます。これが障碍です。この障碍も結構起こり得るので、要注意です。

 Sati とsampajāna はペアであること、一つだけ突出してはいけないこと、sati そのものが解脱ではないことを理解しておけば、この障碍から抜けられます。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p130】

 
 
 

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