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終局のステージの智慧も俗世間の法

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月15日
  • 読了時間: 1分

終局のステージの智慧も俗世間の法

 言葉で書くと、ここまでの説明のようになりますが、修行者の心の中に起こる出来事は言葉にすることはできません。修行者の心の中には四聖諦の四という単語さえも起きません。ただ、一切の現象のありのままの姿を発見するのです。現象は無常・苦・無我であるという立場で、時間をかけて観察して智慧を開発してきたのです。

 終局のステージでも同じことかと、思われるでしょう。同じではありません。聖者にしか現れない智慧が、修行者に俗世間のレベルで現れたのです。修行者は俗世間の認識レベルをはるかに破って超えていますが、まだ悟りに達してないので、アビダンマでは厳しく、終局のステージの智慧も俗世間の法に入れます。これはただの学術的な問題なので、気にする必要はありません。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p150】

 
 
 

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