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経典が説かれた場所

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月1日
  • 読了時間: 1分

経典が説かれた場所

 1  Evaṃ me sutaṃ –ekaṃ samayaṃ bhagavā kurūsu viharati kammā-sadhammaṃ nāma kurūnaṃ nigamo. Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi –‘‘bhikkhavo’’ti. ‘‘Bhaddante’’ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca – 

1 このように私は聞いた──あるとき、世尊は、クル国に住んでおられた。カンマーサダンマというクルの町があった。そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられた。「比丘たちよ」と。「尊い方よ」と、かれら比丘は世尊に答えた。世尊はつぎのように言われた。


 まずは場所です。記録に大切なのは場所と時間ですが、時間についてあまり経典では触れないのです。経典は全て、お釈迦様が亡くなったあと「結集」の場でまとめて編集されたものだからです。この経典は、インドのクルという州にあるカンマーサダンマという名前のクル人の大きな町(nigama)で比丘たちに説かれました。 

アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p16

 
 
 

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