top of page
検索

絶えず変化し続ける感覚の仕業

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月19日
  • 読了時間: 2分

絶えず変化し続ける感覚の仕業 見たり聴いたり感じたりするときは、「私は見ている」「私は聴いている」「私は感じている」という解釈になります。そこに「私がいる」という実感が割り込んでいるのです。簡単に考えれば、もし感覚がなければ、何も感じないはずです。それなら、自分がいる、という実感がないのです。ですから、感覚とは何かと観察をするのです。 苦・楽・非苦非楽という三種類の感覚が生まれます。それも六根(眼耳鼻舌身意)に情報が入り次第です。感覚は一貫して変わらないものではないのです。六根に何を入れるかということによって、感覚が変わるのです。問題は、感覚が絶えることなく起こり続けていることです。感覚がない瞬間は、ないのです。ですから人に、「自分がいる」という実感がいつでもあるのです。 この世に一個の細胞として現れる人間が、徐々に成長して、老いて、死ぬのです。成長というのは、古い細胞が壊れて新しい細胞が生まれることです。二、三年経ってみると、人の身体は全く別な材料で入れ替わっているのです。人のアイデンティティを保つために、変化せず頑張っている細胞は一つもないのです。 しかし、生まれたのも私、幼稚園・小学校などに行ったのも私、結婚したのも中年になったのも私、老いさらばえて死にかけているのも私、という実感だけがあります。それは、絶えず変化し続ける感覚の仕業です。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p146】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 
自然に集中することができるようになる

自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負け

 
 
 

コメント


bottom of page