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聖者たちのサマーディ・滅尽定

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月18日
  • 読了時間: 1分

聖者たちのサマーディ・滅尽定

 サマタ瞑想の場合は、サマーディを築くことが目的になります。色界のサマーディは五つです。無色界のサマーディは四つです。合計は九つになります。

 修行者が最初にサマーディに達することは、何か難しい試験に合格するようなものです。試験を受けるときの自分と、試験に合格したときの自分は違います。前と違って、合格後はある資格を持っています。修行者が第一サマーディに挑戦するとき、心は欲界の中で回転しています。サマーディに達した瞬間に、色界の心が現れます。それで認識の次元が変わったことになります。上の次元に挑戦して成功するためには、心を乱す煩悩を機能しない状態にしなくてはいけません。同じ修行者が第二禅定から第五禅定まで進むときも、認識の次元が上がっていくのです。色界の第五禅定に達した修行者は、無色界の次元に挑戦する資格が得られます。無色界とは物質に決して依存しない心をつくることで達するところです。そちらにも四つの段階があります。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p174】

 
 
 

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