色受想行識
- sapporobukkyoujuku
- 7月27日
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色受想行識 なぜ仏教では身体を色受想行識という五つの要素のみに分けているのでしょうか? どんな人の身体にしても、色受想行識しかない、と言ったとたん、人間の価値ということは言えなくなるのです。人間に価値があるというインチキな話があるでしょう。人間は評価できないのだ、命は尊いのだ、と何の理屈でそう言うのでしょうか。 人間は尊いといいながら平気で人を殺しています。残酷に人をはかって値段を付けているでしょうに。事故を起こして人に怪我をさせたらこれぐらいの賠償額ですよ、と。十歳の子供を殺したらこれぐらい、四十歳の人を殺したらこれぐらいの賠償額、という基準が歴然とあるではないですか。そこでどんな身体にしても色受想行識それだけと思ったら、その色には別に価値はありません。色は肉体だから、そんな価値はない。牛の肉ならば値段はつきますけど、人間の肉の価値はゼロです。では、自分の感情に価値があるかと言ったら、全然ありません。みるみるうちに変化していくものだから、価値があるどころか醜くてどうにもならないのです。そうやってこの五つに分けて自分を観たら、そこで全ての価値が消えるはずなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p128】
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