top of page
検索

色受想行識

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年7月27日
  • 読了時間: 1分

色受想行識 なぜ仏教では身体を色受想行識という五つの要素のみに分けているのでしょうか? どんな人の身体にしても、色受想行識しかない、と言ったとたん、人間の価値ということは言えなくなるのです。人間に価値があるというインチキな話があるでしょう。人間は評価できないのだ、命は尊いのだ、と何の理屈でそう言うのでしょうか。 人間は尊いといいながら平気で人を殺しています。残酷に人をはかって値段を付けているでしょうに。事故を起こして人に怪我をさせたらこれぐらいの賠償額ですよ、と。十歳の子供を殺したらこれぐらい、四十歳の人を殺したらこれぐらいの賠償額、という基準が歴然とあるではないですか。そこでどんな身体にしても色受想行識それだけと思ったら、その色には別に価値はありません。色は肉体だから、そんな価値はない。牛の肉ならば値段はつきますけど、人間の肉の価値はゼロです。では、自分の感情に価値があるかと言ったら、全然ありません。みるみるうちに変化していくものだから、価値があるどころか醜くてどうにもならないのです。そうやってこの五つに分けて自分を観たら、そこで全ての価値が消えるはずなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p128】

 
 
 

最新記事

すべて表示
観察の汚れ:③ 喜pīti

観察の汚れ:③ 喜pīti  修行中、喜びが湧いてきます。今までも修行が進んでいると喜びを感じた経験があったことでしょう。それは「うまくいっている」という程度の喜びです。しかし、今度のこれはわけが違います。喜びの波が溢あふれ出すのです。何かやり遂げたときの喜びと違って、喜びの波が勝手に現れて、身体中に行き渡ります。終わりそうもない気がします。純粋な喜びなので、何の副作用も見当たりません。「喜び中毒

 
 
 
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません  ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。  修行者はこの落と

 
 
 
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa  言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。  ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え

 
 
 

コメント


bottom of page