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見清浄は何を「見る」のか

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月6日
  • 読了時間: 2分

見清浄は何を「見る」のか ヴィパッサナー実践とは、現象を観察し続ける作業です。現象を観察する場合は、一つの側面だけにすると偏見的な観察になります。真理を発見したことにはなりません。ですから現象を観察する場合は、七つの側面で観察するべきだと指導されています。ここまでも、この七つの側面について詳しく説明しました。一つの現象を偏見・主観・先入観などのバイアスに染まることなく、客観的にありのままに観察しなくてはいけないので、この七つの側面を使用するのです。ありのままに観られるようになるのも大変です。 七つの側面を駆使して何を観察するのでしょうか? Nāma とrūpa を観察するのです。Nāma とは心の流れで、rūpa とは物質の流れです。アビダンマを学ぶ人々に、nāma とは何か、rūpa とは何かと、今さら説明する必要はありません。『ブッダの実践心理学』シリーズの第一巻はrūpa の説明に費やしています。第二巻から第四巻までかけてnāma の説明をしています。 しかし瞑想実践する修行者は、アビダンマ・テキストに見られるようなややこしい議論をするのではありません。思考・雑念・妄想などを控えて、確認のみをします。修行者が確認したものごとを経典や他のテキストに照らしてみると、現象のありさまはブッダが説かれているとおりであると発見します。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p91】

 
 
 

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