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観察の汚れ

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月16日
  • 読了時間: 2分

観察の汚れ

 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者は、徹底的に観察を続けています。無常・苦・無我という角度で観察していますから、頭の中で無数の概念が飛び回ることもありません。智慧も現れているし、集中力も高いです。それから必死になって修行をしています。このような優等生の修行者が、いくつかの神秘体験を経験することはあり得ます。中途半端な気持ちで修行する人には現れません。しかし、この体験は智慧を開発する邪魔をします。執着を捨てる気持ちを邪魔します。神秘体験はヴィパッサナー修行者にとっても、面白いものです。つい執着してしまう恐れがあります。

 ヴィパッサナーとは解脱を目指す道なので、それを邪魔して執着を引き起こすがために、ヴィパッサナー瞑想中に起こる神秘体験は、汚れ・障碍と呼ばれます。修行者は十種類の汚れとは何なのか、理解する必要があります。

 これから、十種類の観の汚れのリストを、『アビダンマッタサンガハ』テキストの順番ではなく、『清浄道論』の順番に合わせて説明します。その方がベターです。抜けやすい障碍から、脱出しにくい障碍、という順番になっているからです。また、一番目の光明以外の障碍のうち一つ二つは、かならず現れるだろうと注意した方がよいです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p120】

 
 
 

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