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観察瞑想も修行の経験を繰り返すことで果の心を延ばすことができる

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月20日
  • 読了時間: 1分

観察瞑想も修行の経験を繰り返すことで果の心を延ばすことができる

 ヴィパッサナー・観察瞑想はサマタ瞑想とは違います。サマーディを目指していません。智慧を開発することと、煩悩を根絶して解脱に達することを目指しています。実践の仕方は変わっても、ヴィパッサナーも瞑想の一種です。集中力が現れますし、心は上達します。

 修行者が瞑想に成功する場合は、最初に預流者になります。預流者になる瞬間には、預流道の心が一回起きて、預流果の心が二つ三つ起きて、終わります。修行者には何の管理もできません。しかし、再び観察瞑想を実践して、預流果に達した瞬間の経験を味わうことはできます。その場合は、預流道の心は起きません。Anuloma(随順)心の次に、預流果の心が連続して起こるのです。その時間は、修行の経験を繰り返すことで延ばすこともできるのです。一来・不還・阿羅漢という境地に対しても、方式は同じです。 

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p175】

 
 
 

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