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観業処:④ 度疑清浄

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年9月3日
  • 読了時間: 1分

観業処:④ 度疑清浄 度疑清浄とは、すべての曖昧さ・疑い・中途半端な気持ちなどが消え、心がしっかりし、目的を目指して直進する気持ちになる状態です。 まず、学校の喩えで説明します。なんでも勉強できる人が、優秀な成績で高校を卒業して大学に入ります。大学でも医学部に入ってみます。しかし、自分は勉強ならなんでもできる身分なので、この学問に決めるぞ、という気持ちにはなりません。医大生なのに、文学もやってみたい、考古学もやってみたい、音楽もやってみたい、などの気持ちがあります。それにもかかわらず、医学部の研究をまじめにやっている中で、「医者を目指すなら、中途半端は決して成り立たない。他の学問に時間を費やすことは、医学部の研究の妨げになる。だから、曖昧さも中途半端な気持ちもなくして、医学の研究に一生をかけるべきだ」と決めるのです。それからは、自分の道を楽に進めます。ヴィパッサナー実践の場合も、それに似た段階があります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p18】

 
 
 

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