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観業処:① 戒清浄

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月30日
  • 読了時間: 2分

観業処:① 戒清浄 清浄の一番目は戒清浄です。戒律・道徳を守ることから、清浄への道がスタートします。おそらくみなさん、戒律という用語を聞いただけで、最初から壁が高すぎではないかと思うことでしょう。しかし、戒律の壁が「高い」とか「低い」とか感じるのは、個人的な主観です。清浄へ進む人は、最初にこの試験に合格しなくてはいけないのです。誤解を解くために、少々説明します。 戒律・道徳とは、「どのように日常を過ごすべきか?」という問題です。人間は感情に支配されて生きています。生きている衝動とは、貪瞋痴です。皆、わがままに、生意気に、生きていきたいのです。しかし、社会の攻撃が怖いから、できるだけわがままを抑えようとします。 人に何か目的があるとしましょう。勉強して知識人になるか、会社に入って仕事をするか、スポーツマンになるか、などです。その目的を設定した時点で、これからどのように生きるのか、という問題が起こります。学校に入ったならば、校則を守り、生徒としてふさわしい生き方になるのです。わがままや生意気は通じません。会社に入っても同じことです。スポーツマンになるつもりでいても、食べたい放題に食べて、遊びたい放題に遊んで生活するならば、決してその目的に達することはできません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p16】

 
 
 

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