top of page
検索

観業処:① 戒清浄

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年8月30日
  • 読了時間: 2分

観業処:① 戒清浄 清浄の一番目は戒清浄です。戒律・道徳を守ることから、清浄への道がスタートします。おそらくみなさん、戒律という用語を聞いただけで、最初から壁が高すぎではないかと思うことでしょう。しかし、戒律の壁が「高い」とか「低い」とか感じるのは、個人的な主観です。清浄へ進む人は、最初にこの試験に合格しなくてはいけないのです。誤解を解くために、少々説明します。 戒律・道徳とは、「どのように日常を過ごすべきか?」という問題です。人間は感情に支配されて生きています。生きている衝動とは、貪瞋痴です。皆、わがままに、生意気に、生きていきたいのです。しかし、社会の攻撃が怖いから、できるだけわがままを抑えようとします。 人に何か目的があるとしましょう。勉強して知識人になるか、会社に入って仕事をするか、スポーツマンになるか、などです。その目的を設定した時点で、これからどのように生きるのか、という問題が起こります。学校に入ったならば、校則を守り、生徒としてふさわしい生き方になるのです。わがままや生意気は通じません。会社に入っても同じことです。スポーツマンになるつもりでいても、食べたい放題に食べて、遊びたい放題に遊んで生活するならば、決してその目的に達することはできません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p16】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page