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観業処:⑤ 道非道智見清浄

  • sapporobukkyoujuku
  • 9月5日
  • 読了時間: 1分

観業処:⑤ 道非道智見清浄 まずは先程と同様の学校の喩えです。医大生になった人が、自分の研究テーマを決めてまじめに直進する気持ちになった、これが四番目の度疑清浄の段階です。そのとき、何を研究して何に時間を費やしたら自分が駄目になるのか、どのように研究を進めれば自分が目的に達するのか、はっきりしています。たとえ医学に対する研究や知識などがあっても、自分の研究課題に関係ないものを未練なく捨てるのです。 ヴィパッサナー瞑想にも、似た状態があります。ブッダの教えは真理であると自分で理解しているし、その目的に達するためにはブッダの説かれた方法以外、ないのだと分かっているのです。何の未練も残さず、世の中にある一切の修行方法を捨て、ブッダの説かれた観察瞑想を徹底的におこなうべきだと理解して進みます。これが道非道智見清浄です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p19】

 
 
 

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