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記号論理学

  • sapporobukkyoujuku
  • 5 日前
  • 読了時間: 2分

記号論理学はかなり発展している学問です。最初は簡単。例えばA という定理(proposition)があってB という定理があるとすると、「A はB ですよ」ということを論理学的に言うと、A =B になります。そうすると数学なのですが、しかし、「A はB ですよ」ということは論理的には世のなかで例を出さなければいけないのです。これはなかなか大変です。例がないのです。いま言ったのは記号論理学の最初の定理です。スタートはそこからですが、そちらもなかなか、実例は出せない。一応出しているのは、A は人間である、と言えば、B は皆死んでしまいますと。ですからA はB ですよ、ということで、「全ての人間は死にますよ」ということになるのです。「何となくそうだなぁ」と分かるでしょう。でもA =B だったらB =A なのです。そうすると、「全ての人間は死にますよ」ということは逆にすることはできません。「死ぬ全てのものは人間ですよ」ということは言えなくなってしまうのです。間違ってしまうのです。だからそれで困ったといって、また、きめ細かく分けていってしまいます。ですからB というのは死ぬということだったらB に入る範囲はすごく大きくて、A に入る範囲は小さい。だから「A の全てはB ですが、B の全てはA ではありません」と言わなければいけないのです。それに、それなりの記号シンボルを使ってどんどん広げていくのです。

 
 
 

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