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諦めた瞬間の次に逃げる方向に心が行く

  • sapporobukkyoujuku
  • 5月20日
  • 読了時間: 1分

諦めた瞬間の次に逃げる方向に心が行く

 それでも、喩えを出します。前に火事になった寝室の話をしました。部屋が延焼しているので、怖くなったりして、それから部屋の状況はどうなのかと見て、部屋のことを完全に諦めることにする。それがupekkhā(行捨智)のステージです。

 諦めるだけでは答えになりません。部屋から逃げ出さなくてはいけないのです。自分を救済しなくてはいけません。諦めた瞬間の次に、部屋から安全なところに逃げる方向に心が行くのです。窓の外を見たら、消防隊が空気マットを張っているとしましょう。そこで部屋の中にいる人には、ごうごうと燃えている自分の部屋も見えるし、その暑さも危険性も感じるし、外に張ってある安全な境地である空気マットも見えるのです。危険と同時に安全をいっぺんに見るというのは、このようなことです。まだその人に残っているのは、たった一つの仕事です。何の躊躇もなく飛び込むだけのことです。

 行捨智という終局のステージに入った修行者にも、残っているのはたった一つの仕事です。解脱に飛び込むことです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p151】

 
 
 

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