top of page
検索

身体のために大騒ぎしない

  • sapporobukkyoujuku
  • 45 分前
  • 読了時間: 2分

身体のために大騒ぎしない Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati; samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati. ‘Atthi kāyo’ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evampi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.以上のように、内の身において身を観つづけて住みます。あるいは、外の身において身を観つづけて住みます。あるいは、内と外の身において身を観つづけて住みます。 また、身において生起の法を観つづけて住みます。あるいは、身において滅尽の法を観つづけて住みます。あるいは、身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。そして、かれに〈身がある〉との念が現前します。それは他でもない、智のため念のためになります。かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。このようにまた、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけて住むのです。 それからこのセクションに共通するsati のセットが入ります。ajjhattaṃ 内なる身体を観る、いわゆるなかから観る外から観るということで、この場合は簡単です。自分の身体もそうやって膨らんで汚く醜くなっていく、ということを観察して、自分も決してそうならないことはない、確実にそういう状態になるのだと観る。それから他の人々にしても同じことだ、この世のなかのどんな人であろうが必ず死んでこうやって膨らんで膿が垂れるようになって醜くなるのだ、ということを観てみる。それで一般的にajjhatta bahiddhā vā kāye どんな身体にしても同じことだと観察する。samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati 身体はどのように生まれて来るものかということも観察してみる。vayadhammā-nupassī vā kāyasmiṃ viharati 身体はどのように消え去っていくかということを観察する。そして、samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati その両方をまとめて観ます。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p111】

 
 
 

最新記事

すべて表示
死体を観察する瞑想

身の随観の六番目は、死体を観察する瞑想になります。身の随観の解説は、この項目で完結します。 ここからは9種類の死体を観察して瞑想します。一番目は、捨てられた直後の死体を観察します。 死体が墓場に捨てられているのが 見つかるでしょう。その死体は 死んで一日経っているか、...

 
 
 
どの元素を選ぶのか

どの元素を選ぶのか 一人の修行者がその四つの瞑想ともやらなくてはいけない、という決まりもありません。自分に分かりやすい元素を選ぶのも構わない。その都度その都度、気づく元素を確認しても構わないのです。人の性格によって、簡単に発見できる元素が変わる可能性もあります。地の元素を簡...

 
 
 
太ることを地水火風で説明

太ることを地水火風で説明 食べ過ぎると太ります。太るといっても、いくつかの変化が起きます。物質を入れたから重さが増えます。地の元素です。身体の大きさも増えます。風の元素です。太った人の身体はブヨブヨでこんにゃくみたいです。痩せている他の人の身体とは違います。水の元素です。太...

 
 
 

Comments


bottom of page