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身体の動きに気づく

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月19日
  • 読了時間: 1分

yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā.‘‘Katame cattāro? すなわち、それは四念処です。 四とは何か。Cattāro satipaṭṭhānā と説かれているので、気づきは四種類になります。気づきとは、みな毎日やっていることではないかと思われたら、困るのです。皆に何かしらの気づきがあることは確かですが、誰一人として悩み苦しみを乗り越えていないのです。愁い悲しみをなくしていないのです。心の安穏を確保して、解脱に達していないのです。ということは、釈尊が提案する気づきと、私たちが日々やっている気づきは、同じものではないのです。一般的に考える気づきは、問題を起こさず無事生きることを期待しています。生きることを乗り越えて、解脱に達するべきだという目的はないのです。苦しみを乗り越えて、憂い悲しみをなくして、正理を発見して、安穏たる解脱に達するための「気づき」もあるのです。この経典でその気づきを提示しています。それは四種類です。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.42】

 
 
 

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