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身体の動きに気づく

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年4月19日
  • 読了時間: 1分

yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā.‘‘Katame cattāro? すなわち、それは四念処です。 四とは何か。Cattāro satipaṭṭhānā と説かれているので、気づきは四種類になります。気づきとは、みな毎日やっていることではないかと思われたら、困るのです。皆に何かしらの気づきがあることは確かですが、誰一人として悩み苦しみを乗り越えていないのです。愁い悲しみをなくしていないのです。心の安穏を確保して、解脱に達していないのです。ということは、釈尊が提案する気づきと、私たちが日々やっている気づきは、同じものではないのです。一般的に考える気づきは、問題を起こさず無事生きることを期待しています。生きることを乗り越えて、解脱に達するべきだという目的はないのです。苦しみを乗り越えて、憂い悲しみをなくして、正理を発見して、安穏たる解脱に達するための「気づき」もあるのです。この経典でその気づきを提示しています。それは四種類です。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.42】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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