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関わりがないことで生まれる受

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月15日
  • 読了時間: 1分

関わりがないことで生まれる受 だから世のなかに関わりたい人にとってだけ刑務所は苦しい場所であって、関わりたくない人にとっては、あれほどいいところはないのです。そういうことで関わりがあって生まれる受はsāmisa で、関わりがないことで生まれる受はnirāmisa ということに分けています。だから世のなかから離れて静けさを楽しむ人々にとっては、いくらでも楽しむことはできるのです。静けさを苦しみだと思う人にとってはお気の毒なことで、一時間、二時間でも静かなところにはいられなくなってしまいます。 普通、仏教用語になると、nirāmisa は解脱・涅槃に関わる言葉です。そのときは必ず、nirāmisa pīti になるのです。俗世間から離れると、必ず喜び(pīti)が生まれるからです。しかし大念処経では、nirāmisa という言葉を「解脱の境地」という意味で理解する必要はありません。瞑想実践は、普通の人が行なうものです。解脱とは何かと、まだ分からないはずです。 しかし受の観察を行なう場合は、感覚をsāmisa とnirāmisa に分けなくてはいけないのです。ですから、上で説明したような方法で、実践するのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p143】

 
 
 

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