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集中力の波

  • sapporobukkyoujuku
  • 10月5日
  • 読了時間: 1分

集中力の波 この智慧に達したからといって、「膨らみ、縮み、痛み、かゆみ」などの言葉で確認する状況を超えて、「生・滅」と確認するところに進んだと思ってはなりません。集中力は上がったり下がったりです。波があります。ヴィパッサナー実践は、準備となるサマタ瞑想をしないでおこなう場合は、集中力の波が起こるのです。集中力が下がったら、生・滅は分からなくなります。それはそれで構わないのです。前のとおりに言葉で確認し続けて、修行だけは中断しないで続けます。言葉で確認することを怠ると、その隙に、心が「自分を判断してやろうかなぁ」「自分を評価してやろうかなぁ」と思うのです。これが危険です。自我の錯覚が顔を出すところです。ですから、生滅智に達しても、集中力の波に合わせて、言葉を使って確認する作業を続けます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p41】

 
 
 

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