top of page
検索

集中力の波

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年10月5日
  • 読了時間: 1分

集中力の波 この智慧に達したからといって、「膨らみ、縮み、痛み、かゆみ」などの言葉で確認する状況を超えて、「生・滅」と確認するところに進んだと思ってはなりません。集中力は上がったり下がったりです。波があります。ヴィパッサナー実践は、準備となるサマタ瞑想をしないでおこなう場合は、集中力の波が起こるのです。集中力が下がったら、生・滅は分からなくなります。それはそれで構わないのです。前のとおりに言葉で確認し続けて、修行だけは中断しないで続けます。言葉で確認することを怠ると、その隙に、心が「自分を判断してやろうかなぁ」「自分を評価してやろうかなぁ」と思うのです。これが危険です。自我の錯覚が顔を出すところです。ですから、生滅智に達しても、集中力の波に合わせて、言葉を使って確認する作業を続けます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p41】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page