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音がなくなったら生まれる感覚

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年8月10日
  • 読了時間: 1分

音がなくなったら生まれる感覚 音が入ると、きれいな音だ、うるさい音だ、云々と色んな感覚が生まれてきます。音がなくなったら、そこで生まれる感覚はnirāmisa です。だから論理的に言えば、食べて「楽」を感じている人から、食事を取り上げてしまったら、確実に苦しくなるでしょう。音がうるさいと思っている人にとっては、音を消してあげたら、楽が生まれるでしょう。そういうふうには言えます。分かりやすく説明すれば、そういうことになります。 瞑想というのは分かりやすく観なくてはならないのですから。このように、感覚を観察する場合はこのsāmisa、nirāmisa の両方を観察するのです。 音が聞こえてきます。入ってきた音に「うるさい、邪魔だ」と思ったなら、これは耳と音(声)という対象によって苦痛を感じているのだから、「sāmisa の苦」だと確認する。次に、その音が消えて音がない状態になったとします。そこでいまの感覚は何かと観察して、楽を感じているなら、いまは「nirāmisa の楽」と確認する。あるいは、ただ落ち着いた、というときは「nirāmisa の非苦非楽」というぐあいに分けてみれば良いということですね。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p139】

 
 
 

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