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預流者から不還者まで聖者の心の中にいくつかの煩悩がある

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月16日
  • 読了時間: 1分

預流者から不還者まで聖者の心の中にいくつかの煩悩がある

 阿羅漢は色界・無色界に生まれる欲(色貪・無色貪)も根絶します。存在欲と離れないように絡んでくる煩悩もあります。一つはmāna 慢です。自分がいる、という実感がある限り、māna は続いているのです。しかし一般人のmāna ほど恐ろしい慢心ではありません。他の煩悩がなくなると、慢の力も弱くなります。次の煩悩はuddhacca 掉挙です。掉挙とは、心が落ち着かない、という意味です。それでは預流者も一来者も不還者も、落ち着かない興奮しがちな人々なのでしょうか、という疑問が生じます。落ち着かない、興奮する、集中力がない、とは一般人の心です。預流者から不還者まで、聖者の心の中にいくつかの煩悩があるのです。存在欲が、弱りながらであっても機能しています。それによって、心が揺らぎます。微妙にでも揺らぐ可能性があるので、uddhacca 掉挙が完全に消えてないことになります。阿羅漢になると、存在欲が完全になくなるので、かならずついてくる掉挙も死滅します。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p173】

 
 
 

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