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⑹骨が散乱した死体

  • sapporobukkyoujuku
  • 7月20日
  • 読了時間: 2分

⑹骨が散乱した死体 Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ aṭṭhikāni apagatasambandhāni disā vidisā vikkhittāni, aññena hatthaṭṭhikaṃ aññena pādaṭṭhikaṃ aññena gopphakaṭṭhikaṃ aññena jaṅghaṭṭhikaṃ aññena ūruṭṭhikaṃ aññena kaṭiṭṭhikaṃ aññena phāsukaṭṭhikaṃ aññena piṭṭhiṭṭhikaṃ aññena khandhaṭṭhikaṃ aññena gīvaṭṭhikaṃ aññena hanukaṭṭhikaṃ aññena dantaṭṭhikaṃ aññena sīsakaṭāhaṃ. So imameva kāyaṃ upasaṃharati—つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、(6)たとえば墓地に捨てられた、もろもろの骨に繋がりがなく、四方八方に、すなわち、別の方向には手の骨が、別の方向には足の骨が、別の方向には踝の骨が、別の方向には脛の骨が、別の方向には腿の骨が、別の方向には腰の骨が、別の方向には肋骨が、別の方向には背骨が、別の方向には肩の骨が、別の方向には頸の骨が、別の方向には顎の骨が、別の方向には歯の骨が、別の方向には頭蓋骨が散乱している身体を見るように、この身のみに集中します。 この遺体は、もう肉は全部食べられてしまって、血液も犬たちが嘗めてなくなってしまっている。そこで大きな動物達が来て、あちこち引っ張ったり喧嘩したりして、死体を食べるとき、足の骨なんかが引っ張られて、身体からはずれてしまいます。身体からはずれた骨を他のところに持っていって食べてそのまま行ってしまう。それからまた他の小動物が来て、さらに骨を引っ張ってバラして、骸骨をバラバラにしてしまう。もう人とは言えない。頭蓋骨も、大腿骨も、上腕骨も、色んなところにバラバラに散らかっているのです。それを観たら、「こんなものだ。自分も確実にそうなるのだ」という瞑想を続けます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p121】

 
 
 

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