top of page
検索

103 心の流れは絶えずして、しかも元の心にあらず

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年1月18日
  • 読了時間: 2分

 心は一つの流れです。電流のように流れ続けているものが心で、その瞬間その瞬間に心は変わりますが、一つの流れとしては同じものです。川の流れに喩えてみれば分かりやすいでしょう。川と言っても、そこでは、いつでも違う水が流れています。水の一滴一滴を見ると、全部違うし、同じ水がそこに流れることも二度とない。でも我々に見える現象としては、「荒川があります。隅田川があります」とは言えます。それは世間的な立場からは正しいけれど、真理の立場から見れば、隅田川と言っても、瞬間瞬間、水が流れ続けているはたらきだけがあって、同じ水の一滴が同じ場所に流れることは二度とあり得ないのです。心は場所を取らないのです。心には十種類のṭhāna 時域の違いがあります。この場合は、時域と言っているのは、場所よりも時間なのです。心は瞬間的に生滅変化して、一本の流れとして流れていくのです。同じ心が長く続くことは決してありません。それぞれの瞬間に起こる心は、別々なものです。ある瞬間で、心はpaṭisandhi 結生(けっしょう)というはたらきをする。ある瞬間で、bhavaṅga有分(うぶん)というはたらきをする。一瞬に一つのはたらきしかしないのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《心の正体》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学第四巻2008年 p65】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page