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103 心の流れは絶えずして、しかも元の心にあらず

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月18日
  • 読了時間: 2分

 心は一つの流れです。電流のように流れ続けているものが心で、その瞬間その瞬間に心は変わりますが、一つの流れとしては同じものです。川の流れに喩えてみれば分かりやすいでしょう。川と言っても、そこでは、いつでも違う水が流れています。水の一滴一滴を見ると、全部違うし、同じ水がそこに流れることも二度とない。でも我々に見える現象としては、「荒川があります。隅田川があります」とは言えます。それは世間的な立場からは正しいけれど、真理の立場から見れば、隅田川と言っても、瞬間瞬間、水が流れ続けているはたらきだけがあって、同じ水の一滴が同じ場所に流れることは二度とあり得ないのです。心は場所を取らないのです。心には十種類のṭhāna 時域の違いがあります。この場合は、時域と言っているのは、場所よりも時間なのです。心は瞬間的に生滅変化して、一本の流れとして流れていくのです。同じ心が長く続くことは決してありません。それぞれの瞬間に起こる心は、別々なものです。ある瞬間で、心はpaṭisandhi 結生(けっしょう)というはたらきをする。ある瞬間で、bhavaṅga有分(うぶん)というはたらきをする。一瞬に一つのはたらきしかしないのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《心の正体》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学第四巻2008年 p65】

 
 
 

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