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「痛み」の正体/「痛み」が正体

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月11日
  • 読了時間: 1分

更新日:4月12日


 基本的に、細胞というのは痛みで生きているのです。皆、痛みは消えてほしい、消えてほしいと思うのですけど「それならば死んでください」としか言えません。痛みは消えないのです。なぜならば細胞というのは痛みで生きているので、他の感覚はないからです。楽しい感覚、快楽の感覚は細胞にはないのです。神経細胞に感じられる信号は決まっていて、それは「痛み」という信号だけなのです。他の情報は伝達できません。テレビはテレビ、PCはPC、ステレオはステレオとして仕事はしていますが、なかに流れるのは電子だけ。それと同じく、身体のなかに流れているのは「痛み」という情報だけなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.30】

 
 
 

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