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111 煩悩が消えるということ

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月26日
  • 読了時間: 1分

 「覚った」とは煩悩が消えること、煩悩が消えることは、何かしたいという気持ちが完全に消えることで、それは、たまたま何もしたくないこととは、ぜんぜん次元の違う話です。私たちが言う「何もしたくない」気持ちは、活発さがなくて暗くなって、うつ状態になっているだけです。それは何もしたくない状態どころか、徹底的な煩悩で、ただ煩悩がものすごく固まって「動きたくない、怠けていたい、逃げたい」という煩悩だけが支配的になっているのです。この状態の心は、軽やかで元気な心でいるときよりも、ものすごく激しいカルマをつくっているのです。そうではなく、物事の無常を理解して執着が消えると、「何かしたい」とか「しないまま怠けていたい」という心の不満な状態が消えて、心が完全に満足します。完全に満足すると、何かをしなければという状態が起きずに、心が静止状態のまま流れ続けます。もう動きません。覚った人の、「何かをしなければ」という心が起きない状態は、完全に超越した状態です。我々のレベルで言う「やる気がない」とはまったく違います。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第一巻 物質の分析 p240】

 
 
 

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