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114 無執着になれば安穏に達する

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年1月29日
  • 読了時間: 1分

 対象はなんでもよいので、客観的に観察します。その対象が変化して変わっていきます。どんどん別な現象に変わっていくのです。無常とは、現象が常に変化しつつ、変わりつつ、であることです。赤ちゃんは子供に、若者に、中年に、老人に変わっていって、最期に、死体になります。籾(もみ)は米に、米はご飯に、ご飯はさまざまなものに変わっていきます。籾と米は同じものではありません。米とご飯も同じものではありません。そして、まったく関係のない、別なものだとも言えません。よく観察してみると、無常だから生きているのだと分かります。瞬間瞬間、身体と心が変わらないと、生きているとは言えません。三十秒くらいでも心臓が止まったら、どうなることでしょうか。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第八巻 p23】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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