top of page
検索

114 無執着になれば安穏に達する

  • sapporobukkyoujuku
  • 1月29日
  • 読了時間: 1分

 対象はなんでもよいので、客観的に観察します。その対象が変化して変わっていきます。どんどん別な現象に変わっていくのです。無常とは、現象が常に変化しつつ、変わりつつ、であることです。赤ちゃんは子供に、若者に、中年に、老人に変わっていって、最期に、死体になります。籾(もみ)は米に、米はご飯に、ご飯はさまざまなものに変わっていきます。籾と米は同じものではありません。米とご飯も同じものではありません。そして、まったく関係のない、別なものだとも言えません。よく観察してみると、無常だから生きているのだと分かります。瞬間瞬間、身体と心が変わらないと、生きているとは言えません。三十秒くらいでも心臓が止まったら、どうなることでしょうか。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第八巻 p23】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 
自然に集中することができるようになる

自然に集中することができるようになるここで知りたいのは、どんな智慧が現れるのか、ということです。これからそれを、修行者たちが体験するさまざまな現象の流れに基づいて説明します。 初心者の修行は苦労しながら混乱したままで続きます。足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況すると、何のためにこれをやっているのか、という疑問も生じます。もっと面白いものがないのかと、心が他の対象に走り回ったりもします。しかし負け

 
 
 

コメント


bottom of page